2020年の春、朝ドラ「エール」が放送されます。
豊橋市民はもちろん、朝ドラファンのみなさんはどんな内容なのか気になりますよね。
そこで、「エール」の主人公であり、俳優の窪田正孝さんが演じる古関裕而さんはどんな人なのか、調べてきました。
朝ドラ誘致が始まるまで、恥ずかしながら古関裕而という人物を知りませんでしたが、調べてみると、本当に日本を代表するすごい人です。
内容を流し読み
朝ドラ『エール』のモデル、古関裕而はざーっとこんな人です
古関裕而さん(明治42年~平成元年)は、1964年の東京オリンピックの開会式で鳴り響いた「オリンピック・マーチ」、甲子園で流れる「栄冠は君に輝く」など生涯で約5,000曲を作曲された人。
数多くの名曲を残した偉大な作曲家の1人です。
古関裕而さんの代表曲は?
古関裕而さんの代表曲には、「あっ、この曲聴いたことがある!」という曲も多いと思います。
- 1964年東京オリンピック行進曲「オリンピック・マーチ」
- 全国高等学校野球選手権大会歌「栄冠は君に輝く」
- 阪神タイガース応援歌「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」
- 読売ジャイアンツ球団歌「巨人軍の歌」
- 早稲田大学応援歌「紺碧の空」
- 慶応義塾大学応援歌「我ぞ覇者」
- 映画モスラ劇中歌「モスラの歌」
などがあります。
福島出身である古関裕而さんの福島愛がスゴイ!
古関裕而さんは福島出身とのこともあり、福島に関係する楽曲も数多く残しています。
- 福島行進曲(昭和6年)
- 福島夜曲(昭和6年)
- さくらんぼ大将(昭和26年)
- 福島音頭(昭和29年)
- 花のスカイライン(昭和35年)
- 阿武隅の歌(不明)
- わらじ音頭(昭和45年)
古関さんをざっと理解しつつ、どんな曲を作曲された方なのかを知るには、こちら、福島市の公式YouTubeチャンネルが便利です。
古関裕而の誕生・生い立ち【もっと詳しく知ろう】
日本を代表する古関裕而(本名:古関勇治)さんは、明治42年(1909年)8月11日に、福島市大町にある呉服店「喜多三」に生まれたそうです。
古関さんのお父さんが元々音楽好きで、幼少の頃からレコードで音楽を聴く日々を過ごし、これが古関さんの音楽魂に火をつけました。
古関さんは民謡や吹奏楽が好きだったようで、なんと、小学生の頃から作曲を始めたそう。ユーミン(松任谷由実さん)みたい。
古関さんの自伝には、
「教室の中では目立たない存在であったが、作曲となると夢中になるので、次第にクラスメイトは詩を書いて、私のところに持ってくるようになった。頼まれるから人の分まで作る。できると楽しい。そんな繰り返しで知らず知らずのうちに作曲することに親しんでいった。」
と書かれています。
大正11年に、古関さんは福島県立福島商業高校に入学。家業の呉服店を継ぐ決意の中、第一次世界大戦終結等の影響で呉服店を閉店することに。
ただ音楽好きだった古関さんは、山田耕筰の曲に影響を受けながら、ドビュッシーやストラビンスキー、ムソルグスキーの曲にも衝撃を受け、近代フランスやロシアの音楽に没頭したそうです。
内山(旧姓)金子との出会い
高校卒業後、銀行員として勤めながら、古関さんの音楽熱は加速していきます。
学生時代からの憧れであった山田耕筰に自身の作品を送り、手紙のやりとりも行いました。これが後に古関さんの人生を大きく変化させます。
「竹取物語」2位入選!
昭和4年にロンドンに送った「竹取物語」(他4曲)は、世界中の音楽家をしのいで2位入選となり、「作曲家・古関裕而」の誕生を印象付けました。
この内容について、当時の新聞ではセンセーショナルに記事に取り上げられ、愛知県豊橋市出身の内山金子の目にもとまりました。
そして、古関さんと金子さんは文通をして、出会いから半年で電撃結婚をしました。
金子と結婚後の人生
「竹取物語」の受賞でイギリス留学が決まっていましたが、実家の経済状況や金子さんとの結婚があり、断然することに。
そして、昭和5年、古関さんの人生は大きく変化します。
日本コロムビアの専属作曲家になってくれないか?
山田耕筰さんとのかつての手紙のやりとりのおかげで、古関さんはデビューを果たすのです。
日本コロムビアの専属作曲家であり、顧問でもあった山田耕筰が古関さんを専属作曲家として推薦をしたのです。
デビュー曲はふるさとに捧げる歌「福島行進曲」。当然、当時はレコードですね。レコードの裏面も「福島夜曲(セレナーデ)」で、故郷に関する曲です。
しかし、思いのほかデビュー曲はヒットせず、コロムビア入社5年目にリリースした「船頭可愛や」が庶民の心をつかみ、大ヒットしました。
国民に「エール」を!
古関さんはデビュー後、戦時歌謡、今でいう「軍歌」や「軍事歌謡」を残します。
古関さんは、
兵士達が無事に帰ることを肉親は祈っており、はたしてその中の何人が帰れるのかと思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなくなり、ただ涙があふれてきた
と自伝で語っています。
古関さんの作る軍事歌謡は、兵士たちの士気を鼓舞するような勇猛なものではなく、兵士たちが戦いの疲れを癒したり、気持ちが和むものが多かったそうです。
戦時中に亡くなった方を偲び、その家族らを応援する、まさに「エール」なのです。
オリンピック・マーチにつながる作曲人生
そして、昭和24年、「長崎の鐘」がコロムビアから発売。
戦時歌謡に代表される古関さんのヒューマニズムから、長崎医科大学の永井隆博士の「長崎の鐘」や「この子を残して」をモチーフに、曲が創られました。
永井博士は最愛の妻を原爆で亡くしながらも被弾者の救助活動に従事していました。その後、長崎への原爆投下で被弾してしまいます。
そんな活動を知った古関さんは感銘をうけ、永井博士との手紙をやりとりをしたそうです。
今でも「長崎の鐘」は長崎市民にとって愛される歌だとか。
その他にも、劇作家である菊田一夫とコンビを組み、「鐘の鳴る丘」や「さくらんぼ大将」などNHKラジオドラマの楽曲を提供するようになります。
36年間もの間、コンビで活動されていたそうです。古関さんは、菊田氏のことをこう語っています。
私の音楽に対する最大の理解者であると同時に、作曲意欲を湧かせる私の源泉
また、同郷の作詞家である丘灯至夫ともタッグを組んで、「乗り物シリーズ」と呼ばれる楽曲を生み出していきます。
不滅の作曲家への道
昭和39年、アジア初の東京オリンピックの開催が決まり、古関さんの長年の作曲人生が評価され、「オリンピック・マーチ」の作曲を依頼されることに。
この「オリンピック・マーチ」は世界から作曲者の問い合わせが殺到したそうで、世界の作曲家・古関裕而の誕生とも言えますね。
豊橋にも古関裕而さんの歌がある!
古関さんの妻・金子さんは豊橋市出身であり、豊橋とも深い関係があります。
実は、豊橋市の「市歌」の作曲者が、古関裕而さんなんです。こんな歌です。
古関裕而さんまとめ:ゴイスー!!
やっぱり、スゴイ人ですね。人柄というか、考え方というか、己の利益だけでなくて、国民や故郷を思う気持ちは、人一倍。
朝ドラ「エール」も楽しみですね。そんな朝ドラですが、決め手の1つになったのが、青年経済人の力?・・・とつぶやかれています。
詳しくは以下をご覧ください。